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東京高等裁判所 平成7年(ネ)1579号 判決 1995年12月26日

控訴人・附帯被控訴人(以下、「控訴人」という。)

大高憲二

右訴訟代理人弁護士

加藤済仁

松本みどり

岡田隆志

被控訴人・附帯控訴人(以下、「被控訴人」という。)

大塚恒夫

大塚仁美

右法定代理人親権者父

大塚恒夫

右両名訴訟代理人弁護士

弘中惇一郎

加城千波

主文

一  原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。

二  被控訴人らの請求を棄却する。

三  本件附帯控訴を棄却する。

四  訴訟費用は、第一、第二審とも被控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

(控訴)

一  控訴人

主文第一、第二項と同旨

二  被控訴人ら

控訴棄却

(附帯控訴)

一  被控訴人ら

1 原判決を次のとおり変更する。

控訴人は、被控訴人らに対し、それぞれ金一〇〇〇万円及びこれに対する平成二年一〇月三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2 仮執行宣言

二  控訴人

附帯控訴棄却

第二  事案の概要

事案の概要は、次に記載するほかは原判決と同じである。

(原判決の訂正)

原判決二枚目裏末行の「腫瘤」を「しこりないし腫瘍の画像」と改める。

(控訴人の主張)

一  原判決の事実誤認

1 平成元年九月三〇日の診察について

平成元年九月三〇日の超音波検査の画像はぼやけており、三cm×三cm程度のものであったのであり、控訴人の使用した超音波検査機器では、乳房のしこりについて、大きさを含め所見をとることは殆どできない性能のものであった。したがって、控訴人が、同日の超音波検査で原判決の認定するような三cm×三cm大の腫瘤を認めたことはないのである。

また、控訴人は、同日の診察で、昭子の乳房のしこりについて、原判決の認定するように乳ガンの可能性は低いと考えていたことはなく、ガンの疑いもあることから、生理直後に再度受診させることとしたものである。

2 控訴人の乳ガン患者の診察経験について

控訴人は、区の指定により乳ガンの検診をしており、毎年六月から一二月まで毎月三〇名の診察をしており、その内約一〇名については乳ガンの疑いをもち、検査による診断のために検査設備の整った施設に紹介している。したがって、乳ガン患者を診察したのが一人であるという原判決の認定は事実誤認である。

3 平成元年一一月二日の手術の緊急性について

同日北里研究所病院で行われた昭子の手術は、原判決の認定するような緊急なものとして行われたものではなく、当日手術予定が空いていたからにすぎない。

二  控訴人の過失について

1 平成元年九月三〇日の診察について

控訴人は、同日の昭子の乳ガンの可能性は五〇%と考えていたが、積極的な根拠があってのことではなく、乳緊があり、またしこりの痛みを訴えていたため、しこりの所見がとれないことからそのように考えていたのである。すなわち、乳ガンの可能性を考えて専門医に紹介すべきか、それとも乳腺症にすぎないのかについて、これを積極的に判断するに足りる所見がとれなかったことから、可能性を半々と考えたのである。

控訴人は、乳ガンの診断の経験が一例しかなくとも、前記のとおり、乳ガン検診の経験は多数あり、診療経験は豊富であって、現に必要があれば他院を受診させるなどしているのであるから、控訴人に診療経験が乏しいことを前提に、診断経験が一例しかないから、直ちに乳ガンの専門医に昭子を紹介する行動にでるのが自然であるとはいえない。

なお、一〇月七日は九月三〇日よりもさらに生理に近く、昭子を触診しても、医学的に有意な所見がとれるものではない。

2 九月三〇日における生理後の再診の指示について

(一) 控訴人が、超音波検査で不鮮明な三cm×三cmのしこりの映像を認めたとしても、使用した超音波検査の機器は乳ガンの検査には適切なものではないからその診断は意味のないものであり、昭子の年齢は乳ガンだけでなく乳腺症の好発年齢でもあり、また、片側しかしこりがないからといって乳ガンと乳腺症を鑑別できるものではなく、原判決が指摘するこれらの点は、乳ガンだけでなく、乳腺症の可能性をも相当程度疑うべき根拠となるものである。

したがって、右診察の結果は、直ちに乳ガンの確定診断ができる専門医に紹介する根拠とはならない。

(二) 乳ガンの早期発見、早期手術の必要性が唱えられるのは、それが予後と有意な関連性を有するからである。ところで、予後に有意な影響をもたらすとされるダブリングタイム(ガン細胞の数が二倍に増殖する時間)は、乳ガンでは通常三か月程度といわれている。そして、「早いものは一か月以内にガン細胞の数が二倍になる乳ガンも相当の確率で存在している。」とする原判決の認定は、医学的に確立された知見ではない。

そうだとすれば、本件で控訴人が昭子に指示した再診までの期間最大三週間は、右一般的な医学的所見であるダブリングタイム(三か月程度)のわずか四分の一であり、この期間を待つことが予後に有意な差をもたらし、早期発見、早期手術の理想に照らし不十分な処置であるとはいえない。

なお、帝京大学付属病院や慶応大学付属病院では、初診から乳ガンとの診断を経て手術に至るまで通常一か月程度かかっており、現実の医療も、ダブリングタイムが三か月程度であるという医学的知見を前提として行われている。

(三) しかも、控訴人は、漫然と生理後の再診を指示したのではない。昭子のような場合、腫瘤が乳腺症か乳ガンかを鑑別するためには生理後の触診が有効とされているから、そのように指示したのであり、充分医学的知見にかなった、しかも平均的レベル以上の処置である。

控訴人のような診断方法は、現在広く行われている乳ガン検診制度の中で肯認されているものであって、しこりが認められたら直ちに確定診断可能な専門医に紹介すべきだとするのは、現在の乳ガン検診の一般的方法を否定することになる。

(四) 控訴人が三週間程度してからの再診を指示したことが、早期発見、早期手術の理想に反するものではない以上、控訴人の診療所では、乳ガン診断には不十分な超音波検査の設備しかないこと、乳ガン手術の態勢をとれないことは、控訴人の過失を認定することの独立した根拠とはならない。

三  因果関係について

1 本件で、控訴人の過失行為(原判決の認定する九月三〇日の時点で昭子を転院させなかった不作為)と昭子の死亡との間に事実的因果関係があるとするためには、控訴人の過失行為によって昭子が平成二年一〇月三日乳ガンを原因とするガン性腹膜炎、心嚢炎で死亡したということが、全証拠を総合検討し、経験則に照らし、高度の蓋然性をもって是認できることが必要である。

予後の問題は、事実的因果関係が高度の蓋然性をもって証明された後に、加害者に被害者の損害をどの範囲で賠償させるのが相当かという相当因果関係を判断する際に考慮されるべきものである。

原判決は、控訴人の損害賠償責任の範囲について、因果関係の割合が具体的数字で立証される場合には、その割合による責任を負わせるというものであるが、この考え方は「確率的心証の理論」ないし「心証度による損害の認定」の考え方にすぎず、採用することのできないものである。

なお、寄与度の理論は、事実的因果関係が高度の蓋然性をもって証明された場合に、相当因果関係の範囲内で賠償責任を認めようとする理論であって、原判決の因果関係論とは異なるものである。

2 原判決は、「昭子の死亡が起きなかった可能性が具体的な数字をもって立証される場合には、……その割合による責任を負わせることができる」との前提に立ちながら、「一〇月一二日前後と一一月二日の乳ガン手術による生存率とを比較した場合、具体的な数字では表すことができないものの、無視しえない生存率の差があったと認めることができる」として控訴人の負担すべき賠償額を二〇〇万円としているが、論理的に矛盾があり、理由に齟齬がある。また、損害の計算根拠も示されていない。

3 原判決は、昭子が仮に同年九月三〇日に転院したとしたら、一〇月一二日前後に乳ガン手術を受けることができたとして、因果関係を議論するが、昭子が同月一二日前後に手術を受けえたことを認めるに足りる証拠はない。

すなわち、仮に、昭子が九月三〇日に藤崎病院の紹介を受けたとしても、その当日に細胞診を受けえたとする証拠はなく、仮に、藤崎病院で九月三〇日に細胞診を受けたとしても、その結果が五日後に判明するとの証拠はなく、手術の日程も、一〇月三〇日に診察した国立がんセンターの福富医師から北里研究所病院に電話連絡があり、そのとき一一月二日にたまたま手術ができるということであったため、同日手術になったのである。そうすると、仮に、昭子が九月三〇日に藤崎病院を紹介されたとしても、一〇月一二日前後に手術ができたかどうか全く不明である。

したがって、一〇月一二日手術の場合の予後と一一月二日手術の場合の予後を比較することは失当である。

4 原判決は、九月三〇日の時点で、昭子に皮膚のひきつれや腫瘤の動きが悪くゴツゴツした感じがなかったことを前提としているが、九月三〇日の時点では、昭子がしこりの痛みを訴えており乳緊もあったことから、視診や触診でそのような所見をとることができなかったのであり、右のような症状がなかったとはいえない。

また、控訴人が九月三〇日に使用した診療所の超音波検査装置は波長が長く、乳房の検査には正確性を欠くものであったのに対し、一一月一日の超音波検査は波長の短い乳房の検査に適する装置でなされたものであって、ある程度の正確性が確保されるものである。したがって、精度において異なる装置を用いて検査がなされているものを単純に比較し、そこから乳ガンの病状の変化は無視しえないと結論することは到底できない。

そして、予後に影響を与えるダブリングタイムが三か月程度であるというのが一般的な医学的所見であり、現実にも一か月程度では予後に影響を与えるような変化はないとされているのであるから、原判決のいう乳ガンの病状の変化が無視しえない生存率の差をもたらすとの認定は不当である。

(被控訴人らの予備的主張)

控訴人が、平成元年九月三〇日昭子の乳ガンを見過ごしたことにより、昭子は、本来受けられる重要な治療の機会を喪失し、その結果治癒の可能性が相対的に減少するという損害を被った。

したがって、昭子には、期待権(治療機会喪失)ないし延命利益侵害による慰謝料は認められるべきである。

第三  当裁判所の判断

一  本件の事実経過について

証拠によると、次の事実が認められる。(全般につき、証人浅沼史樹、控訴人、被控訴人大塚恒夫。人証はすべて原審における尋問)

1  昭子は、平成元年九月中旬ころ、右乳房に相当大きなしこりがあることに気付き、また、腫れがあって痛みもあったので、同年九月三〇日、産婦人科北砂クリニックを経営する控訴人の診察を受けた。(<書証番号略>)

控訴人は、昭子の右乳房の触診をし乳緊と乳腺に圧痛を認めたが、昭子が痛みを訴えたため、充分な触診ができず、超音波検査をし三cm×三cmのしこりないし腫瘤の画像を認めたものの、乳腺症の可能性もあり、その場合においては、生理後に痛みがとれることから、生理後に再び診察に来るように指示した。(<書証番号略>)

なお、昭子は、同年一〇月七日、控訴人医院に更年期障害の薬を取りに行ったが、その際には診察は受けていない。

2  昭子は、同年一〇月七日に予定していた生理が一六日から始まり、腫れは少し引いたが、それ以上の回復はしなかったので、生理が終わって同月二一日再び控訴人の診察を受けた。(<書証番号略>)

3  控訴人は、平成元年一〇月二一日、昭子を診察し、右乳房の腫瘤の動きが悪く、辺縁不整、皮膚のひきつれを認めたので、精査を要すると判断をし、藤崎病院に対し、昭子に「右乳房痛、右乳房腫瘤」があるとして、診察を依頼した。(<書証番号略>)

4  昭子は、平成元年一〇月二一日、藤崎病院において、問診に対し九月中旬から右乳房痛があると答えた。(<書証番号略>)

藤崎病院は、同日、昭子を診察し、右乳房外側上半円部を中心に境界との癒着を感じさせる弾力性の大きな腫瘍を認め、右乳房の腫瘍の三か所から細胞を吸引採取し、検査機関に細胞診の依頼をしたが、同月二六日、検査機関から、腺ガンと考えられるので組織診が必要、細胞診断クラスⅤ、陽性との報告を受け(<書証番号略>)たので、同月二八日控訴人に報告した。(<書証番号略>)

同月二四日の診断では右乳房に時々疼痛があり、腫瘍が大胸筋と一緒に動くことを確認している。(<書証番号略>)

控訴人は、同月二九日、国立がんセンター外科に対し、昭子が右乳房腫瘤を訴える患者であり、穿刺吸引細胞診で乳ガンを否定できないとの検査結果であるので、精査して欲しいとの依頼状(<書証番号略>)を作成し、昭子に交付した。

5  昭子は、同年一〇月三〇日国立がんセンターで、「九月中旬ころ、自分で右乳房にしこりを発見した。いつも痛い。」との予診カード(<書証番号略>)を提出して受診した。

国立がんセンターの外科医師福富隆志は、昭子を診察したが、触診により、右乳房に不整形の7.6cm×7cm程度の腫瘤を認め、ステージⅢの乳ガンと診断した。しかし、同病院では三〜四週間の入院待ちの状況であったため、同医師は昭子に北里研究所病院の外科を紹介することとし、同病院に対し、入院と手術を依頼する旨の紹介状を書いて交付した。(<書証番号略>)

なお、福富医師の触診では、腋窩リンパ節や鎖骨下及び鎖骨上窩にはリンパ節の触知はなかった。(<書証番号略>)

6  昭子は、同年一〇月三〇日午後、北里研究所病院に行き、浅沼史樹医師の診断を受け、同年一一月一日に入院した。同日の超音波検査では、昭子の乳房の腫瘤は、5cm×5.7cmであり、やや不整形で表層皮下組織内に浸潤を疑わせる突出があり、内部は低濃度で不均一な濃度を認め、明らかな石灰化は認められなかった。

翌二日、昭子は浅沼医師から定型的乳房切断の手術を受けたが、右手術では、昭子は硬性腺管ガンで、腫瘤は肉眼で7cm×7.6cmあり、リンパ節は固い転移を多数触知する状態であり、腋窩静脈の前面のものを剥離し、腋窩静脈の裏側にも連なっていた部分も一塊として摘出するため長胸神経を切断した。そして遠隔転移はなかった。

病理組織検査の病理診断によると、昭子のガンは、浸潤性腺管ガン、硬性ガンで、分化度の低い悪性ガンであり、肉眼的には最大径が9cm×9.5cmの腫瘍で、TNM分類のステージⅢであって、腫瘍の性質がスキルス(硬ガン)というタイプであり、中心部は腫瘍からなっているが、周辺に浸潤して進行するので、周辺部分では、正常な細胞と腫瘍の入り交じった部分があり、正常な細胞があるところまで測れば大きくなるし、ガン細胞だけでできていて正常な細胞があまりない部分で測れば小さくなる。(<書証番号略>、証人浅沼史樹)

7  昭子は、入院中に放射線治療等を受けたのち、平成二年一月一二日に軽快退院し、通院加療を受けていたが、同年四月ころ、ガンが局所皮膚に転移し、同年九月一〇日、ガン性胸膜炎で入院したが、同年一〇月三日ガン性胸膜炎、心嚢炎で死亡した。(<書証番号略>)

二  乳ガンと診察について

1  乳ガンについて

乳ガンの診断方法、乳腺症との区別、乳ガンの臨床病期分類、乳ガンの進行速度については、原判決九枚目表二行目から同一〇枚目裏末行までのとおりである。

すなわち、乳房にしこりがある場合には、乳腺症又は乳ガンの可能性があり、乳腺症は両方の乳房に出現するのが通常であるのに対し、乳ガンはむしろ片側の乳房のみに生ずること、両者の区別は、触診、超音波、マンモグラフィ等で行うこと、乳ガンの臨床的進行速度を表す病期分類として、TNM分類が用いられ、Tは腫瘤の大きさ、Nはリンパ節転移の有無、Mは遠隔転移の有無で分類し、腫瘤の大きさ(最大径)が、直径二cmまでがT1、五cmまでがT2、5.1cm以上がT3であり、患者腋窩リンパ節を触れないものをNO、触れるものをN1、腋窩リンパ節が周囲組織又はリンパ節相互間の固定をみるものをN2、鎖骨下又は鎖骨上窩リンパ節を触れ転移ありとされるもの、又は上腕浮腫のあるものをN3、遠隔転移のないものはMO、あるものをM1と示し、TNMの各項目の組み合わせで病気をステージOないしⅣに分けるが、T2MONOはステージⅡ、T3MONOはステージⅢに分類すること、ガン細胞の数が二倍になるダブリングタイムの分布は、0.2か月から無限大にまで及び、ダブリングタイムが一か月以内のものが二一四例中三五例あったという報告(わが国)や、ダブリングタイムが三〇日以内のものが全体の一六%であるという研究(米国)があり、腫瘤が大きくなると、リンパ節、他臓器への転移の可能性が大きくなること、乳ガンの治療においても、可能な限り早期発見、早期手術が必要であるということは一般的な医学的知見であることが認められる。(<書証番号略>)

2  さらに、証拠によると、乳ガンの診断および医学的知見として、次のような一般的見解があるものと認められる。

(一) 問診では、家族歴、既往歴について聴取するとともに、現病歴として、乳腺腫瘤については、それに気付いた時期をできるだけ正確に知ると同時に、それに気付いた動機を詳しく聴取する。

疼痛がある場合には、月経周期と関連性があるのか、両側性か一側性か、乳房全体か限局性かなどを問う。

乳ガン細胞の周囲組織への浸潤のために生ずる萎縮性陥凹症状は、皮膚や乳頭のごく僅かの変化から、乳房全体が萎縮するものまであり、視診を行うには、両上肢を自然に下げさせた位置で、両側乳房の対称性、乳頭、乳房皮膚の変化、皮膚の陥凹(えくぼ症状)の有無を観察し、次いで、患者の上肢を挙上させて、乳頭の方向の変化や陥凹、皮膚の部分的なひきつれ、乳房の非対称性などが出現するか否かを観察する。

えくぼ症状は、浸潤ガンでは早い時期からかなりの高頻度にみられるが、ガンがもっと進行して皮膚浸潤や胸筋筋膜に浸潤すると乳房の変化がみられたり、乳房が小さくなってくるなどの明らかな萎縮症状がみられるようになる。大きな腫瘤が存在しても、その分だけ乳房が大きくなるということはなく、逆に小さくなるところに浸潤ガンの特徴がある。

乳ガンも約三cm程度の大きさになると、周囲に浸潤してきて、皮膚が窪むとか、つれるとか、様々な随伴症状が生じてくる。

触診は、両示指で、大きさ、形、境界、表面、硬さ、えくぼ症状、可動性、圧痛等について検査をする。(<書証番号略>証人浅沼史樹)

(二) 日常の乳ガン治療において予後を予測する際に用いられる判断要素(予後因子)は、腫瘤径とリンパ節の転移の進行度であり、この両者の中でリンパ節転移の進行度の方が予後因子としてより重要であるといわれている。

腫瘤径が五cm以下と5.1cm以上とでは一〇年生存率に大きな開きがあり、これ以上では6.1cm以上に分けても生存率にあまり差がない。これは、腫瘤径が5.1cm以上になると皮膚の浮腫や、リンパ節転移が高度になるなど、予後不良となる因子を伴う割合が急速に増加するためであると考えられる。(<書証番号略>)

(三) 帝京大学産婦人科で治療した乳ガン全体の83.3%が乳腺腫瘤を主訴として来院している。乳腺細胞がガン化してから触診で発見されやすい平均一cmの大きさに達するまで約八年の年月が費やされ、腫瘤径が一cm以下(T1)であっても病理学的にはすでに浸潤ガンで転移の存在を考慮しなければならない。乳腺腫瘤を発見した場合には、積極的に生検などを行って、組織学的診断を行ったほうがより適切である。

乳ガン検診における超音波診断法の意義は、視診、触診によって疑われた腫瘤の存否を確認するとともに腫瘤の性状を診断することにある。超音波診断の基本は、腫瘤自体が充実性か嚢胞性かあるいは両者の混合形であるかの診断である。腫瘤が充実性であれば細胞診や生検による病理診断が必要であり、嚢胞性であってもより積極的な診断方法を選択すべきである。(<書証番号略>)

(四) 触診とマンモグラフィ、触診と超音波、あるいはこの三者の併用で、乳ガンの八〇%は診断が可能である。これでもなお、ガンの確診のつかないときは、次のステップとして穿刺吸引細胞診を行う。

乳ガンの大部分は腫瘤の触知を契機として発見される。腫瘤の大きさは乳ガン患者の予後を規定する重要な要因の一つであり、二cm以下の乳ガンの五年生存率は九〇%以上と良好な成績である。したがって、注意深い触診により、このような早期ガンの発見に努力しなければならない。(<書証番号略>)

(五) 浸潤性乳管ガンは、全乳ガンの八〇ないし九〇%を占め、乳頭腺管ガン、充実腺管ガン、硬ガンの三型に分けられるが、硬ガンは、乳ガンの中で最も頻度が多く、悪性度が高く、リンパ節転移も多い。間質への浸潤傾向が強く、臨床的に皮膚陥凹や乳頭陥凹を生じやすい。予後は乳頭腺管ガンや充実腺管ガンに比べて不良である。

乳ガンの超音波像の特色としては、内部エコーや辺縁・境界エコーに不規則性を認めることが多く、典型的なガンの超音波像は、形状が不整であり、内部エコーが粗雑で不均一であり、境界エコーが不規則で強く、後方エコーが減弱・欠損し、縦横比が大きくなる。(<書証番号略>)

(六) 問診、視診、触診で一応の臨床診断をつけ、さらにマンモグラフィ、超音波検査、細胞診等の補助診断法を行うのが理想的である。

乳房に主訴をもって来院してくる患者に対しては少なくともマンモグラフィは全例に行うべきである。

各種診断法のなかで、最も注意しなければならないのは、乳ガンを良性疾患と誤診することである。(<書証番号略>)

三  転院指示義務違反について

前記一の認定事実によると、控訴人は、九月三〇日の段階では、乳ガンか乳腺症か判断しないままに、乳腺症である場合を想定して生理後に再診するように指示したものと認められる。

控訴人は、九月三〇日の診察では、昭子が右乳房に痛みを訴えたため、十分な触診ができず、超音波検査も機器が乳ガン検査に適したものではなかったから、乳ガンか乳腺症かの積極的な判断をするに足りる所見が取れないものとして、二週間後の再診の指示をしたことに過失はなかったと主張する。

しかしながら、控訴人は触診により右乳房に腫瘤ないししこりの存在を確認しており、仮に、超音波の画像が不鮮明であったとしても、画像診断では三cm×三cmの大きさの腫瘤の存在を窺わせるものであったこと、しかも、その腫瘤ないししこりは右側にのみ出ていたのであり、その大きさの乳ガンであったとすれば、リンパ節や他臓器への転移を防ぐためには早期の手術が必要であったこと、昭子は右乳房に腫瘤が存在することを主訴として来院していたものであり一般的な乳ガン検診に来たわけではないこと、乳ガンの場合には予後の著しく悪いものもあり、二週間の遅れによっても問題が生じないとまではいえないのであるから、その段階で、予後が良性の乳腺症の可能性を前提とした診察、治療を継続するのではなく、予後の不良な乳ガンである可能性を含むことを前提とした診察、治療をすべきであったと考えるのが相当である。

控訴人は、一般の医学的所見では、乳ガンのダブリングタイムが通常三か月であると言われていることを前提に、その約四分の一に過ぎない二週間後に再診を指示したことは不十分な処置ではないと主張するが、ダブリングタイムが問題とされるのは、乳ガンの細胞が二倍となっても予後において差し支えないことを前提としていると考えられるところ、本件においては、九月三〇日の時点において、昭子の乳ガンは三cm×三cmの大きさであり、その時点ですでに予後において不良な結果を生ずる可能性を有している段階であったのであり、その段階でダブリングタイムがどの程度かを議論すること自体昭子の乳ガンの治療においては意味のないことであるといわなければならない。

さらに、控訴人は、問診、触診、視診をどのように行ったのか不明であり、当時、昭子に三cm×三cmの乳ガンがあったとすると、的確な問診、視診をすることによって、乳ガンの可能性を察知することも可能であったと考えられる。

したがって、控訴人には、九月三〇日の時点において、昭子の右乳房に三cm×三cmの腫瘤ないししこりを確認しながら、それ以上乳ガンであるのか否かの診察をしないままに、生理後の再診を指示したのみで、確定診断の可能な他の専門病院において乳ガンの検査を受けるべきであることを指示しなかった点に、その過失の程度はともかく、過失があったものと認定せざるをえない。

四  転院指示義務違反と死亡との因果関係について

昭子は、平成元年一〇月二一日に控訴人の紹介により藤崎病院において検査を受け、その後一一月二日北里研究所病院で手術により乳ガンとリンパ節を除去したが、結局平成二年四月に乳ガンが転移して死亡したものである。ところで、控訴人が転院を指示して一二日後に手術ができたのであるから、控訴人が平成元年九月三〇日に転院を指示したとしても、手術に至るには少なくとも一二日間程度の日時を経過した同年一〇月一二日ころになったものと推認でき、控訴人の転院指示義務違反があったことにより、昭子の手術が遅れたのは、結局一〇月一二日から同年一一月二日の間であったものと認められる。

ところで、昭子の乳ガンは、一一月二日の手術の時点では肉眼で7cm×7.6cm(病理組織検査の病理診断では9cm×9.5cm)の大きさがあったのであるが、前日の超音波検査では、昭子の腫瘤の大きさは5cm×5.7cmとされていたのであり、また、リンパ節も、手術では転移を多数触知し、腋窩静脈の裏側にも連なっていた部分も一塊として摘出されている状態であったのに、前々日の一〇月三〇日の検査では腋窩リンパ節の触知はなかったとされており、またその性質も悪性の腺管ガン、硬性ガンであったものであり、また、一〇月二一日の段階でも、乳房の腫瘤の動きが悪く、辺縁不整、皮膚のひきつれが認められたものであった。これらの事実関係を踏まえると、九月三〇日の時点で超音波の映像が三cm×三cmであったとしても、現実の腫瘤の大きさはそれを越えていた可能性が大きいものと認められる。そして医学的一般的知見としては、腫瘤が大きいほどリンパ節への転移の可能性は大きいといわれているところである。さらに、手術の際に摘出されたリンパ節の転移の数は多く、一塊で摘出されている状況から判断すると、九月三〇日の時点で触知しなかったとしても、九月三〇日あるいは一〇月一二日の時点においてすでにリンパ節の転移が存在した可能性が相当程度あったものといわざるをえず、これを否定することはできない。そして、医学的な一般的知見としては、リンパ節の転移がある場合の予後は非常に悪いといわれているところである。このような事実関係及び医学的な一般的知見を総合すれば、昭子の手術が一〇月一二日から一一月二日までの二一日間遅れたことが原因となって、昭子が死亡するに至ったと認めるのは著しく困難であり、控訴人の転院指示義務違反の過失と昭子の死亡との間の因果関係は、結局認めることはできない。

したがって、被控訴人らが求める昭子の死亡による慰謝料請求は理由がない。

五  転院指示義務違反と治療機会喪失、延命利益侵害との関係について

前記三のとおり、控訴人の平成元年九月三〇日の措置には過失があったものと認められる。しかし、前記のとおり、昭子は、同年一一月二日に手術を受けた後、平成二年一月一二日に軽快退院したのであり、証拠(<書証番号略>)によれば、一般検診では生理前の検診を避けるように指示した文書があり、また、事案の内容により差し支えのない場合では、正確な診断ができないときは、生理後の再診を指示したりすることもありうることも認められるのであるから、昭子が腫瘤を主訴として診断を求めてきた患者であることを考慮しても、控訴人が生理後の再診を指示したことは、控訴人の取りえた最善の措置であったとはいえないものの、医師の保有する高度の信頼性を失わせるような措置であったとはいえず、また、前記のとおり、平成元年九月三〇日当時、昭子の乳ガン自体が悪性のもので、その大きさも相当なものがあり、客観的には超音波の画像診断より大きい乳ガンであった可能性が高いこと、さらに、リンパ節の転移がなかったとはいえない事情もあり、乳ガンの病状の進行も予後の悪い悪性のガンであったのであって、控訴人の転院指示が二一日遅れたことによって、その間に昭子の乳ガンの病状に特段の変化があったものとは認められない。以上の事実を総合すれば、昭子について、法によって保護するに値する利益が侵害されたものとは認められず、昭子に治療機会の喪失による損害や、延命利益の侵害による損害が発生したものとも認められない。

したがって、被控訴人らが求める期待権侵害ないしは延命利益侵害による慰謝料請求も理由がない。

六  よって、被控訴人らの請求はいずれも理由がないから、控訴人の控訴に基づき、被控訴人の請求を一部認容した原判決を取り消して被控訴人の請求を棄却し、被控訴人らの本件附帯控訴は棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官篠田省二 裁判官淺生重機 裁判官杉山正士)

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